「人生とは 川を流れる小石のようだ。」
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孔子は晩年にこう言った。
『人生は川の流れと同じだ。我々は、大河の一滴である』と。
筆者である私はそれに対して似たようなことを想った。
『人生とは 川を流れる小石のようだ』と。
石ころを人間の「人生」に例えてみた。
山地で生まれた石ころ(生命)は、やがて山から転げ落ち、川の流れによって下流へと流されていく。
人生の始まりとはまさに、「転げ落ちる」ことである。
母なる大地から生まれた赤ん坊の石ころはすぐに泣き叫ぶ。
転げ落ちる激しさに、苦しみもがく様を表現するには、「泣き叫ぶ」ことしかできないだろう。
山から転げ落ちた石ころは、やがて川の上流にたどり着く。
まだ幼い「石ころ」は角が立ち、川の流れにうまく乗ることができない。
感情がうまくコントロールすることが出来ずにいる幼い石ころは、様々な障害物にぶつかりながら少しずつ角が取れるようになってくる。
そんな石ころは長い年月をかけて、下流へと流されていく。
上流では清く穏やかな流れの川で、光が川底まで差し込む浅瀬だったが、下流へと流れるにしたがって水深も深く闇がおおくなった。
こうして石ころは流されていくうちに色々なことを学ぶ。
人生とはまさに川を流れる小石のようだ。
川の中をコロコロと転がる「小石」。
時には川岸に打ち上げられ、日差しを目いっぱい浴びながら自然を感じたり、大雨で増水した川に激しくもまれ、思うように進むことが出来ないこともある。
仲間の小石とともに転がっていたと思ったら、いつの間にか転がる仲間もそれぞれの道に進んでいく。
中には、深い溝にはまり、出てこれなくなるものもいる。
小石(人生)とはそんなものだ。
川の流れに身を任せるほかないのかもしれない。
小石は「大海原」を目指して川を流れていく。
小石にとって「大海原」は終着点かもしれない。
終着点である大海に小石は飲み込まれていく。
深く暗い海の底ではもう流されることはないかもしれない。
そして小石は姿を消していく。
いずれまた大地の岩となり、小石として生まれ変わるために。
人生とは「生と死」の繰り返しなのだろうか。
「生」あるものは必ず「死」を迎える。
もしも人生が「生と死」の繰り返しであるのならば、「死」を恐れることはない。
しかし、「生」あるものは「死」を恐れている。
経験したことがない「死」について「不安」を感じるからだろう。
そう、「生」ある今、誰も「死」を経験したことがない。
死ななければ経験できない。
私も「死」についてはさっぱりわからない。
しかしながら、そんな「死」を「生」ある我々が目をそらすのはおかしい。
「死」は必ず訪れる。
そして私が個人的に思うに、「死」して我々は必ずなんらかの形で生まれ変わっているはずである。
今の日本人は、死後に「火葬」されて骨壺に収まるのが当たり前となっているが、本来なら小石のように、大地に還るのが本来の「生」あるものの姿であると考える。
大地に還ることで新たな「生」となり循環するだろう。
我々はいずれ「小石」になるかもしれない。
そしてこの地球の一部として生まれ変われることに喜びを感じることで、更にあらたなる生命へと生まれ変わる。
こうしてまた、「小石」から「人」へと生まれ変われるのかもしれない。
私は想う。
地球(ほし)そのものが我々の「生命」そのものなのではないだろうか。
そんな私たち自身がどうして、この地球(ほし)を汚すことができるだろうか。
一歩引いて物事を、世の中を、見てほしい。
この地球(ほし)そのものが我々なのだと私は想う。
参考書籍